沖永良部島


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沖永良部島

アオウミガメの泳ぐ沖永良部島

 奄美群島に属する 沖永良部(おきのえらぶ)島は  鹿児島から南へ約550キロ、 沖縄本島から北へ約60キロ、 面積約90平方キロ、外周約50キロ、 最大標高約240メートルの 平たい隆起サンゴ礁の島です。  

石灰岩と赤土と潮風がミネラル豊富な土壌を作り出し、 平均気温22度と暖かく、四季を通じて熱帯、亜熱帯の花が 咲き乱れる気候で、マンゴー作りに適した土地柄です。

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えらぶの西郷さん

伊延港の地図

 2018年 NHK大河ドラマで 「西郷どん」がはじまります。

沖永良部と西郷さんの かかわりを書いてみました。

 

 

 

文久2年(1852)閏8月14日西郷隆盛を乗せた宝徳丸が 沖永良部島 伊延港に到着しました。

 

 

 

 

西郷隆盛上陸の地の碑

代官 黒葛原(つづらはら)源助は、付属役 福山清蔵と一緒に乗馬を用意して西郷隆盛を伊延港に迎えました。沖永良部島の間切横目(警備の警察官)土持政照も同伴しました。

 

西郷隆盛は整然とした態度で出迎えの各位に対して「遠来の労に感謝します。これからは一流罪人として各位を煩わす事になりますが、よろしくお願いします」言葉は乱れず、自ら謹慎の意を表しました。

西郷隆盛の銅像

衆は皆感激し、その礼儀の良さに感謝して、乗馬を勧めましたが西郷は乗馬を拒み 「私は罪人の身であるから、再び土を踏むことはないでしょう。もう一度この土を踏みしめさせて下さい」と言いました。

一同は西郷の意に任せ徒歩で和泊に着きました。

和泊役場では西郷を慰めようと酒の用意をしていましたが西郷は辞退しました。

 

西郷は早く牢屋に入る事を希望し鹿児島から派遣されて来た足軽に鍵の点検をさせ静かに座禅を組みました。

西郷隆盛の入った牢屋

牢屋は2坪余りの粗末な建物で、東西南北、戸はなく壁もなく4面四寸角の格子でした。牢屋は狭い上に戸もなく壁もないので、夏の昼間は焼け付くように暑く、南国の太陽が容赦なくさし込みます。

また沖永良部島は台風の多い島で、台風の時は大波が押し寄せ、牢屋の中に音を立て中に飛び込んできます。

冬になると冷たい北西の風が吹き込んで来ます。

 

牢屋の中で瘦せ細った西郷隆盛

牢屋の中で西郷はぶるぶる震えながら座禅を組んでいました。この様子を見ていて土持政照(警察官)はこれは大変だ、このままでは西郷さんは死んでしまうと思い 自分の家でご馳走を作り持っていきましたが、西郷さんは「美味しいもの食べると死に顔が見苦しいものだそうです。せめて死に顔だけはきれいにしたいと思いまして」と言ってそれを返しました。

不自由な牢屋生活で、西郷の体は、だんだん痩せ細り、顔は青白く、髭はぼうぼうとなり、病人になってしまいました。

土持政照は毎日毎日思い悩みながら、牢番にやってきました。吹きさらしの格子牢を見ながら 思いをめぐらしていました。

ふと「囲いとはどういうものか」と自問自答しました。遠島命令書には「囲いに入れよ」とあるが、「囲い」は家の中に造ってもいいはずだ。「そうだ! 家の中の座敷牢も『囲い』だぞ!」と。

政照は代官に「恐れ多いことでありますが、申し上げます。吉之助様のことでございますが、お殿様は囲いに入れよと、仰せられました。囲いとは座敷牢でもよろしいのではありませんか。今の吹きさらしでは、命が持ちません。座敷牢を私の費用で造ることを、ご許可いただけないでしょうか」

「よかろう。建造いたせ。費用は代官所の費用で出してやろう」と許可がおりました。

座敷牢で子供を教える西郷隆盛

衰弱した西郷は、座敷牢に移り 徐々に元気を取り戻しました。

朝の内、和漢こもごも読書に励み、午後は島の子供たちに手習いを教え、晩は 政照をはじめ島役人を教えました。

こうして西郷から教えを受けた人達は その後 優れた人材となって 近代の島の発展に尽力しました。

生麦事件発生現場の看板

 

※西郷さんが 沖永良部に着く少し前に 江戸では、生麦(なまむぎ)事件が起きていました。

 

生麦事件は 文久2年(1862)8月21日に、武蔵国橘樹(たちばな)郡生麦村(現・横浜市鶴見区生麦)付近において、薩摩藩主島津茂久(忠義)の父・島津久光の行列に乱入した騎馬のイギリス人たちを、供回りの藩士たちが殺傷(1名死亡、2名重傷)した事件です。

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奄美群島・ハブのいる島 いない島

奄美群島や沖縄諸島に毒蛇のハブがいることはよく知られていて、全ての島にいると思われています。

 

 しかし奄美にも、ハブのいない島はあるのです。

奄美大島・加計呂麻(かけろま )島・請(うけ)島・与路(よろ) 島・徳之島にハブはいますが、喜界島・沖永良部島・与論島にはいません。

 その理由について、諸説あります。

喜界島・沖永良部島・与論島  等 ハブのいない島は標高が低い珊瑚隆起の島です。これに対して、ハブが生息している島は、標高の高い火山島です。

むかし陸続きだった時代にハブはそれぞれの島に渡りましたが、海面上昇によって珊瑚隆起の島が完全に沈んでしまい、そこに住むハブは滅んでしまったと言われています。

火山島は完全に沈んだわけではないので、ここのハブだけが残り、その後再び海面が下がって今のような地形になり、特定の島だけにハブが生息しているということです。

 

もうひとつの説によると、沖永良部島等は珊瑚礁の化石でできている島なので、土壌がアルカリ性であり、そのためハブが死んでしまうと言われています.。

 

しかし、沖縄の離島には、竹富島のように、隆起珊瑚礁の島で標高が低くても ハブがいる島もあり、いる・いないの根拠は、未だ謎につつまれているようです。

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沖永良部島 行幸啓

天皇、皇后両陛下は18日、鹿児島県の沖永良部島で特産品のテッポウユリを栽培する農家を訪問され、切り花用に栽培されているテッポウユリの花やつぼみを見学した。

沿道で国旗の小旗を振って歓迎

国頭小学校で、サトウキビから「サタ」(砂糖)を絞る道具「サタグルマ」を使った、5年生15人の黒砂糖作りの授業も見学。両陛下は児童が作った黒砂糖を口にし、皇后さまは「甘いわね。ごちそうさま」と笑顔を見せた。

最後に全校児童80人が民謡「永良部百合の花」を披露。三味線を使った演奏と歌に両陛下は拍手を送った。


お出ましに関する用語

 

行幸(ぎょうこう)

    天皇が外出されること。

 

還幸(かんこう)

    天皇が行幸先からお帰りになること。

 

行幸啓(ぎょうこうけい)

    天皇・皇后がご一緒に外出されること。

 

還幸啓(かんこうけい)

    天皇・皇后がご一緒に行幸啓先からお帰りになること。

 

行啓(ぎょうけい)

    皇后・皇太后・皇太子・皇太子妃が外出されること。

 

還啓(かんけい)

    皇后・皇太后・皇太子・皇太子妃が行啓先からお帰りになること。

  

お成り(おなり)

    天皇・皇后・皇太后・皇太子・皇太子妃以外の皇族方が外出されること。

 

ご帰還(ごきかん)

    天皇・皇后・皇太后・皇太子・皇太子妃以外の皇族方がお成り先からお帰りになること。